アイコン 小さなダムの大きな闘い(石木川まもり隊)その10


「意識を変えよう」

石木ダム

http://ishikigawa.jp/about/alliance/tatakai/

第2章、新たな運動の出発
石木ダム建設が持ち上がってから20年が経過した昭和55年(1980)に入ると「ふるさとを守る会」の活動は活発化していった。会報「住民運動の声」が発刊され、ダム関係地区のみならず川棚町にも配布されるようになって
いった。

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また、これまでの学習を集大成した「ふるさとを守ろう―水危機論のうらがわー」
というダム反対の論理を盛り込んだ立派なパンフを出版、広く川棚町民に配布する活動も行われた。

石木ダム

さらに、守る会は反対運動を強化するためには、県内の各種住民団体との連帯が絶対的な条件であるとし、住民運動推進懇話会との聯絡を強め、一方、労働組合、革新政党との連帯強化を求め、東彼地区労の労働者との交流も進めていった。
東彼地区労は、幹事会の中で守る会に対する支援体制について確認、以後、各種
の行動に地区労も積極的に取り組むようになった。
こうした守る会の活動に対して、反対同盟は「守る会の活動は住民運動からかけ離れ、イデオロギー色が強くなって、ついていけない」とし、ついに昭和55年(1980)3月10日、同盟総会において賛成48、反対26で反対同盟を解散することを決定した。
ここに至って守る会は、川原地区23戸をもって新たに「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成したのである。
一方、川崎勝前委員長を中心とする人々は、4月4日、81戸を結集し「石木ダム対策協議会」を結成。ここに反対運動は完全に分裂したのである。
その後、条件派の対策協議会は、ダム視察の補助を受け、各地のダムを視察すると共に、県とダム建設についての工事計画、補償概要説明を受けたが、反対同盟は県との話し合いを一切拒否、徹底抗戦の構えを崩さなかった。さらに、ダムや水問題の全国集会参加や各地のダム反対住民との交流を深めていき、学習活動を強化していった。
インターネット長崎奉行・遠山金四郎こと中山洋次

[ 2021年11月10日 ]
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