アイコン きょう、3月1日(火)中村法道知事が長崎県庁を退庁する。


中村法道知事

中村法道、本名(のりみち)は昭和25年(1950)11月29日、長崎県南高来郡有家町、現在の南島原市有家町の一本釣り漁師の家に生まれる。幼少のころから神童と呼ばれ、その記憶力と聡明さに親兄弟の期待も大きく、親兄弟が漁で稼いで法道少年を大学までやり、中村家ばかりか近所でも期待の少年だった。

長崎県立島原高等学校、長崎大学経済学部を卒業し、昭和48年(1973)
長崎県庁に入庁し、最初の配属先である税務課の上司に二井関成(第42・43・44・45代山口県知事がいた。その後、国際課長、日蘭交流400周年記念事業推進室長、秘書課長、対馬支庁長(現・対馬振興局長)、農林部長、総務部長等を歴任し、平成21年(2009)4月に長崎県副知事に就任している。

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平成21年(2009)8月30日の衆議院選挙で自民党が大敗し民主党政権が誕生すると、同年11月4日、金子原二郎・長崎県知事は民主党政権の勢いに恐れ慄き、平成22年(2010)2月に行われる長崎県知事選挙に出馬しない意向を表明している。そのような政権交代という自民党の逆風の中、中村法道氏は自由民主党や地元財界からの立候補の要請を受け、同年12月22日に副知事を辞任し、覚悟を決め、知事選出馬を表明している。
選挙戦では財界関係者らが組織した「新知事をつくる県民の会」を母体に、農業者農政運動組織連盟のほか、各種団体の推薦、自民・公明両党及び金子知事の個人後援会からの支援も受け、民主・社民・国民新の与党3党の推薦及び連合長崎の支持を受けた元農水省官僚の橋本剛氏や、元自民党参議院議員でプロレスラーの大仁田厚氏ら、過去最多の対抗馬6人を破り初当選を果たしている。

3月17日、長崎県庁に初登庁し、長崎県知事に就任。長崎県では史上初めての、県庁職員生え抜きの公選知事であった。

中村知事は自自在職中に企業誘致、所得向上、少子化対策、人口減少対策、新型コロナウイルス・オミクロン株のまん延防止対策にも力をいれ、目覚ましい成果を上げている。

その後、平成26年(2014)平成30年(2018)と再選し、令和4年(2022)の知事選も負ける選挙ではなかったが、新型コロナウイルスの新たな変異株オミクロン旋風の前に新人の大石けんご氏に541票という僅差で敗れた。

ちょうど、半世紀前の昭和45年(1970)2月、中村知事と同郷の佐藤勝也氏が4選を目指して敗れたのも、今回と奇しくも同じ五島出身の久保勘一氏だったが、あの時はオミクロン株の旋風ではなく、金子岩三という権謀術策に長けた陰険な勢力によって佐藤勝也氏は4選を阻まれている。

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中村知事とは同郷の佐藤勝也元知事

とはいえ、今回も新人の大石けんご氏の裏で暗躍していたのが、金子岩三氏の息子、金子原二郎、五島出身の国会議員・谷川弥一というのも因縁の為せる業であろう。

明日、その大石けんご氏が県庁に初登庁するという。
とりあえず、お手並み拝見と行きましょう。
中村法道知事、長い間、ご苦労様でした。
追伸、佐藤勝也氏は知事在職中に一冊の本を上梓している。題名は「この丘に立ちて」という題名である。

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題名にある「この丘」というのは旧長崎県庁があった場所の丘のことである。
佐藤知事の「この丘に立ちて」の数か所には興味深い箇所や行間に込められた意味深な箇所が何か所か伺うことが知れる。
中村知事も退職後は余暇も増えることと推測される、そんな時は「この海辺に立ちて」を読み、自らも回顧録でも執筆したら、どうだろう。谷川弥一、金子原二郎の理不尽やら感謝の思いでもいいし、胸の内を思いっきりぶちまけるのもいいだろう。

生月町で左が大石候補、右側が金子原二郎氏

県民が知りたいのは、あの場面で谷川弥一、金子原二郎と、どのような葛藤があ
ったのか、是非、深く知りたいものである。

谷川弥一の理不尽、金子原二郎の不条理、そんな時、中村知事はどのような心境で、あの海辺に立っていたのだろう。

金子谷川

一先ず、中村法道知事には長い間お疲れ様でしたと言ってあげて、お見送りしてあげたい。

インターネット長崎奉行・遠山金四郎

 

[ 2022年3月 1日 ]
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