アイコン 治外法権国でなければ対馬仏像を返してください/韓国ニュース


韓国人窃盗犯キム氏らが2012年10月、対馬市の観音寺から高さ50.5センチ、重さ38.6キログラムの観世音菩薩坐像を盗んで韓国に持ち込んだ(仏像2体、経典1点、1対の仏像のみ日本へ返還済み、経典は行方不明)。

当然、観音寺に返却すると思われたが、韓国という国家はユネスコ条約に違反して、対馬仏像を8年以上拉致したままにしている。

 金の玉のない日本政府は、国際司法裁判所に訴えもせず韓国側の動向を静観し続けている。

 当初の製造安置が浮石寺との記録が仏像自体に記録されているが、700年前の話、所有権をかつてに主張する韓国浮石寺側は、この仏像が14世紀西海岸にしばしば出没していた倭寇が略奪した文化財だとし、仏像を管理している韓国政府を相手取って仏像の引き渡しを求める訴訟を2016年に提起。

 2017年1月、ユネスコ条約など知らない反日の大田地裁の裁判長は「仏像の占有者(韓国政府)は原告である浮石寺に仏像を引き渡す義務がある」と判決した。

しかし、検察が控訴とともに起こした引き渡し執行停止仮処分申請が受け入れられ、訴訟が2審に係留中となっている。

 日本政府はこれまで何回も韓国側に仏像の返還を求めてきた。しかし、韓国政府は無視。

韓国政府が最近外交ルートを通じて観音寺に届けた文書に「浮石寺が勝訴すれば、韓国政府は観音寺に仏像を還付することができなくなる」として、「裁判(2審)に直接参加して明確に所有権を主張し返還を求める」よう、裁判参加を促す内容が含まれていたという。

観音寺の元住職の田中節孝氏は、書類が届いたことを明らかにした上で「以前から韓国での裁判に参加したいという意向を示し、今後、韓国の法廷で早く仏像を返還してほしいと訴えていくつもり」だという。

以上、

スポンサーリンク

 下手に参加すれば裁判で言質を取られ、敗訴する可能性がある。そうすれば、裁判に参加しての判決だとして取り返しが付かなくなる可能性もある。日本の裁判制度と異なることを注意しておく必要があるのではなかろうか。

日本政府が強い態度で返還請求しないことから問題解決が長引いているもの。国際司法裁判所に提訴でもしていれば、既に判決も下りている経過期間だ。

 <韓国・朝鮮は仏教を大弾圧>破壊し尽くす

李氏朝鮮時代は1392年の初代の李成桂王から1897年まで。

李氏朝鮮王朝は、前王朝の高麗の国教であった仏教を否定し、崇儒排仏を唱え仏教を大弾圧し続けた。特に3代目の太宗王(李芳遠)は1407年(太宗7年)に全国で88ヶ寺院だけにし、さらに4代目の世宗王は1424年(世宗6年)の仏教弾圧では、仏教の宗派を禅教と教宗の2宗派に統合しそれぞれ18ヶ寺、計36寺院を残してすべて破壊させた。

さらに成宗(9代、在位1469年~1494年)・燕山君(10代、在位1494年~1506年)・中宗(11代、在位1506年~1544年)の時代、仏教はさらに壊滅的打撃を受けた。

成宗は1492年、僧侶の度牒制度と出家を禁止した。

燕山君は1504年、2宗派の本山である興天寺(禅宗の本山)と興徳寺(教宗の本山)を廃寺にし、そのほかの寺院も遊興施設にかえた。

中宗は1507年、科挙の僧科を廃止し、また仏像を破壊させた。

 儒教を主導する両班たちが寺の打ち壊しを主導し、罰せられないため金目当ての盗賊たちも寺を打ち壊した。欲深い両班たちも多く、打ち怖し時に金目当ての仏像や経典などを持ち出し、朝鮮半島南岸に居留していた仏教国の日本人たちに売却、また盗賊たちもそうした日本人たちに売却してお金にしていた。それ高麗時代には倭寇も出没していたが、正式に入港させることで倭寇の大幅減少を見た。

 李氏朝鮮政府は倭寇を食い止めるため1407年頃、国防上の見地から「興利倭船」の入港地を設置した。

慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道昌原市)に限定した。

1410年、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。入港地には日本人の居留地が形成された。

1510年の三浦の乱まで続き、釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続した。

 当時の文献は残っており、廃寺を免れた寺に浮国寺などの名は一切ない。

 元々倭寇は蒙古襲来(実態は朝鮮高麗人と中国宋国人が主/1274年と1281年)により大被害を受けた松浦などの領主らが報復するため朝鮮半島を襲撃したもの、その後は一部、海賊業に変身していた。

朝鮮半島の仏像や経典の多くが昔から日本にあるのは、そうした李氏朝鮮王たちの崇儒排仏による寺院破壊により流出したものが多く渡来している。

浮国寺の観世音菩薩坐像もそうして日本に渡ったと見るのが自然な成り行きではないだろうか。

また、対馬領主の宗氏は朝鮮貿易で巨額の財を成した大名でもあった。

宗氏本宗家が1400年代になると朝鮮の倭寇対策などを利用して、朝鮮貿易の独占的地位を固めていた。豊臣秀吉の朝鮮征伐まで続き、江戸時代にも再び李氏朝鮮と交易を行っていた。

[ 2020年12月22日 ]

スポンサーリンク
 

 

 


HTML Comment Box is loading comments...



※記事の削除等は問合せにて。

スポンサーリンク
 

 

関連記事

 

 



PICK UP


破産・小口倒産一覧