語られざる変化、変えられぬ烙印―平和国家のジレンマ
――日本人は「戦後の物語」から目を覚ますときかもしれない
トランプ米大統領によるイラン核施設への爆撃発表は、世界中に緊張を走らせた。ホルムズ海峡は日本の原油輸入の生命線であり、その影響力の大きさに市場も敏感に反応した。しかし、わずか数日後にイランが停戦案に同意し、事態はあっけないほど早く収束へと向かった。
この「スピード感」――攻撃から停戦へ至る一連の動きが、最初から描かれた筋書きだったのではないかと思わせるほど整然としていた。そんな構図を見て、私たちの脳裏をかすめるのは、日本の近代史、なかでも真珠湾攻撃の前後である。
かつて日本は、資源封鎖に追い詰められるかたちで戦争へと突入した。だが、その開戦の背景には、アメリカの世論形成や外交戦略が周到に張り巡らされていたことも見逃せない。結果として「あの戦争は日本が仕掛けた」と語られ、戦後の物語は一貫して“日本=悪”という構図を定着させていった。
だが、あの戦争を「始めた」のは本当に誰だったのか。勝者が書き換えた歴史を、私たちはどこまで鵜呑みにしてきただろうか。そして今、アメリカは再び、自国の正義を装いながら武力を行使している。
一方で、日本は戦後80年にわたり、一度も戦争を起こしていない。憲法第九条のもと、自衛隊の行動も災害派遣や平和維持活動にとどまり、「平和国家」の姿勢は揺らいでいない。それでもなお、世界から「かつて戦争をした危険な国」と見なされ続けているのはなぜか。
“日本は加害者である”というレッテルを手放したくないのは、むしろ他国なのかもしれない。私たちはその役回りに、あと何十年付き合わされるのか。100年経てば許されるのか。それとも、永遠に「道義的敗戦国」として扱われるのか。
折しも「慰霊の日」にあたる6月23日、シンガー・ソングライターのさだまさし氏が、自身のSNSで沖縄戦と現在の情勢についてこう綴った。
「戦争というものの残酷な本質は、生命に対して何の術も持たない人々の痛みにある」。
アメリカによるイラン爆撃の報を受けたさだ氏は、「正義という言葉では語りきれない現実」に静かに目を向ける必要があると語っている。その言葉には、時代や場所を越えて、人命の重みを問い直す視点が含まれているように感じられる。
平和を求める日本人が、ただ黙って頭を下げ続ける時代は、そろそろ終わらせなければならない。戦争を繰り返さないという決意こそ、最大の知性であり、責任ある国家の証である。歴史を直視しながらも、押しつけられた「役割」から脱却する勇気が、いま必要とされている。