アイコン 韓国で三浦倭館の薺浦倭館跡地を初めて発掘確認

 

 

15~16世紀の朝鮮と日本の自由貿易地帯だった「三浦倭館」の中で、唯一現存する薺浦倭館の跡地が初めて確認された。
日韓関係が最悪状況である中、朝鮮と倭(日本)の善隣友好の交流を示す日韓関係史の重要な考古学的発掘だという評価をうけている。

文化財庁の許可を得て、慶尚南道昌原市鎮海区薺德洞一帯で発掘調査を行ったトゥリュ文化財研究院は、「昨年行った発掘調査で、朝鮮初期から蛇梁鎭倭變(1544年)が勃発するまで運営した薺浦倭館の跡地を確認した」と、12日明らかにした。

薺浦倭館の跡地が発見されたのは、薺德湾とその周辺のネンイ峠の間に位置する約7302平方メートルの区域で、4階の規模で造成された大規模な階段式地形が確認された。
堤防とフェンス、基壇の建物址など、住居関連遺跡だけでなく、当時使用した陶器や瓦の破片など、数百点が大量に出土された。

朝鮮時代の倭館の実際の遺跡地が、発掘調査を通じて確認されたのは今回が初めて。

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「薺浦をはじめとする三浦倭館」は、申叔舟(1417~1475)の「海東諸国紀」(1471年)に収録された古地図などで位置を間接的に推定してきた。
残りの「釜山浦倭館」と「鹽浦倭館(蔚山)」の跡地は、現代に入っては、それぞれ釜山鎭市場と現代自動車工場の敷地として使われているので、遺跡地を確認できない。
そのため、学界では唯一無二の倭館の跡地という点で、今回の発掘調査の意味が大きいと評価している。

韓国考古学会のイ・チョンギュ会長(嶺南大学文化人類学教授)は、「『薺浦倭館』は朝鮮が交易を希望する倭に土地を割愛して建物を造成した遺跡地という点で、大きな意味がある」とし、「日韓両国の善隣・友好の歴史を示す『薺浦倭館』の遺跡地が、硬直されている日韓関係を解決していく糸口になればと思う」と話した。
以上、東亜日報参照

<李氏朝鮮時代の倭館>
1392年に成立した李氏朝鮮は、1368年に成立した明とは異なり、朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。
このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は1407年頃国防上の見地から興利倭船の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道昌原市)に限定した。
1410年、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。

当時朝鮮貿易に大きな利権を持っていた対馬の早田左衛門太郎は1426年、慶尚左右道各地で任意に交易できるようにして欲しいと朝鮮政府に訴えたが、拒否され、代償として蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)が入港地に追加された。

これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。

朝鮮半島に居住し帰化しない日本人を朝鮮では恒居倭と呼び、首領を頭とする自治が行われた。恒居倭の中には、倭館の関限を超えて居住する、漁業や農業に従事する、密貿易を行う、倭寇化する者もいた。
当初、朝鮮政府は日本人には徴税権・検断権も行使出来なかった為、彼等を統制下に置こうと圧力をかける。
1510年、交易上のトラブルもあり朝鮮側に不満を募らせた日本人は、対馬からの援軍も加えて大規模な反乱を起こす。この「三浦の乱」は、結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。

<富山浦倭館>
後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。
1494年には450人程度の日本人が居住していた。
1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。
1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで釜山浦倭館は存続し、三浦倭館の中では最も長く日本人が住んでいた。

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[ 2019年3月14日 ]

 

 

 

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