アイコン 「辺野古りっかりっか通信」創刊号のおしらせ

 

 

投稿者=辺野古りっかりっか通信社

「辺野古りっかりっか通信」創刊号        

ごあいさつ

“義理ん 背からん ありん捨てぃららん 思案てぃる橋ぬ 渡いぐりしゃ”

22年前の1997年12月24日、米軍普天間飛行場の辺野古移設受け入れを表明した比嘉鉄也元名護市長
は、名護市長を辞職する直前に時の総理大臣、橋本龍太郎氏に会い、古くから沖縄に伝わる琉歌をその場で書いて渡していた。

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「義理ん 背からん ありん捨てぃららん 思案てぃる橋ぬ 渡いぐりしゃ」
意味は「義理か感情のどちらかを選ぶのは難しい」「義理」は地元に振興策を約束してくれた国に対するもの。

そして、「感情」は住民投票で明らかとなった名護市民の気持ち。

国に対しても義理がある。名護市民のことも捨てられない。橋本総理(当時)もかなり涙を流して泣かれた。と、後に比嘉鉄也氏は語っている。

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当時の沖縄県は那覇市、浦添市、宜野湾市等の南部経済圏と沖縄市以北のヤンバル地方と呼ばれていた金武町、宜野座、名護市等の北部経済圏の南北間の経済格差は大きなものがあった。

特に海洋博の失敗もあり、海洋博後の北部地域は街道に廃業したホテル・レストラン等が放置され、ゴーストタウンさながらに街から活気が失われていた。

そのような状況の中で名護市の市長として、辺野古移設受け入れはまさに苦渋の選択だった。
 
比嘉鉄也氏は北部地方の発展と引き換えに辺野古移設受け入れを決断し、「思案てぃる橋ぬ 渡いぐりしゃ
」潔く自ら政界から身を引いたのである。

あれから22年の年月が経ち、辺野古地区住民もまた紆余曲折はあったものの住民の多くは辺野古移設を容認している。

それでも辺野古のゲート前には市民と称る市外県外国外からの活動家が傍若無人に辺野古の街を徘徊し、国道を渋滞させ、辺野古地区住民は今尚、翻弄され続けている。

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また、埋め立て工事も愈々本格化してきた中、工事から地元業者が排除されヤマトの業者による搾取に近い差配の状況も聞こえてきている。

これから数年は続くであろう辺野古移設工事が、比嘉鉄也元名護市長の思いである「義理ん 背からん」ことにならないように、辺野古義理ん通信として「辺野古りっかりっか通信」を創刊し、「義理ん 背からん ありん捨てぃららん 思案てぃる橋ぬ 渡いぐりしゃ」を、しみじみと噛みしめている。
 
比嘉鉄也元名護市長と橋本龍太郎総理の涙を無駄にしてはならないとの思いで辺野古りっかりっか通信として発信していく。                                 
                                        平成31年吉日
                                        
                                         平安山良政

 
[ 2019年3月29日 ]

 

 

 

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